婚約破棄されました。告発内容は、すべて事実です  ~前世で魔王だった悪役令嬢は、宿敵だった皇太子に溺愛される~

婚約破棄されました。告発内容は、すべて事実です  ~前世で魔王だった悪役令嬢は、宿敵だった皇太子に溺愛される~

last updateآخر تحديث : 2026-10-18
بواسطة:  みだんتم تحديثه الآن
لغة: Japanese
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「この女は――数万を焼き殺した、魔王です」 聖女候補の告発は、一言残らず事実だった。 前世、わたくしは大陸の三分の一を焼いた魔王。今世では普通の恋に憧れる公爵令嬢として生きていたのに、卒業パーティーで正体を暴かれ、婚約破棄と処刑を言い渡される。 そこへ現れた隣国の皇太子は、すべてを知った上でわたくしを求めた。 「ええ。あなたが魔王だったことも、すべて信じております」 濡れ衣ではない。罪も過去も、すべて本物。 罪を抱えた元魔王の令嬢と、彼女のすべてを知って愛する皇太子。 二度目の生で結ばれる、宿敵たちの溺愛ラブファンタジー。

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プロローグ
崩れ落ちる音は、思ったより静かだった。城壁が割れ、火の粉が舞い、悲鳴と剣戟がまだ遠くで続いているというのに、私の腕の中にいる彼女の周りだけ、世界から音が抜け落ちているようだった。焔獄の魔王ヴェルギア。大陸の三分の一を灰に変え、勇者一行を退け、そして今、私と刺し違えて倒れている女。その胸に、私の剣が深く沈んでいる。彼女の剣も、同じだけ深く、私の身体を貫いていた。相打ちだった。最初から、そのつもりだった。彼女を殺すつもりで剣を抜いたのではない。彼女が生きて、私が生きて、この先も魔王同士として殺し合い続けることに、意味を見出せなかっただけだ。だから、最後の一撃を、互いに躱さなかった。彼女もまた、同じことを望んでいたのだと思う。傷だらけの身体で、それでも一歩も引かなかった彼女の目に、迷いはなかった。私と同じ目を、していた。だが。崩れ落ちる彼女を抱き止めた瞬間、私は初めて、自分の見誤りに気づいた。殺し合ってなお、私は彼女から目を離せずにいた。血にまみれ、傷だらけで、それでも凛と剣を振るい続けたその姿に、私は――心を、奪われていた。いつからかは、分からない。最初の激突のときか。三度目の膠着のときか。あるいは、もっと前、彼女の名だけを噂に聞いていた頃からか。気づいたときには、もう遅かった。私たちは、殺し合わなければならない立場にいた。彼女の瞼が、閉じかけていた。魔力の残滓が、赤い瞳の奥でまだ揺れていた。私は、彼女の頬に触れた。血で汚れた頬だった。それでも、これほど美しいものを、私は他に知らなかった。「――お前を」声が、掠れた。彼女には、もう聞こえていないかもしれない。それでも、言わずにはいられなかった。このまま彼女を死なせて、終わりにすることもできた。魔王同士の宿命として、それが正しい終わり方だったのかもしれない。けれど、私は。諦めたくなかった。腕の中で、私は術式を組み始めた。禁術と呼ばれる、不完全な転生の術。範囲も、行き先も、時代さえ制御できない。同じ世界に生まれる保証すら、ない。それでも。一縷でも望みがあるなら、賭ける価値があった。「――次は」崩れ落ちてゆく彼女を見つめながら、私は術を発動させた。光が、二人を包んでいく。「必ず」彼女の意識は、もうほとんど残っていないだ
last updateآخر تحديث : 2026-08-29
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第1話 婚約破棄、してくださってありがとうございます
「ヴィオレット・ノクスハイム。貴様との婚約を、破棄する!」大広間に、王太子ユリウス様の声が響き渡った。シャンデリアの光がぐらりと揺れた気がした。談笑していた令嬢たちが一斉に口をつぐみ、楽団の演奏が中途半端なところで止まる。数百の視線が、まっすぐに私へ突き刺さった。婚約破棄。……やった。いえ、違う。今のは違う。今のはその、なんというか、反射のようなもので。私は慌てて表情を引き締めた。婚約者から公衆の面前で婚約を破棄された令嬢が取るべき態度。えっと。悲しむ。そう、悲しむのだ。ここは涙のひとつも浮かべて、震える声で「なぜですか」と問うのが正解のはず。恋愛小説ではそうだった。よし、と気合を入れて、私は顔を上げた。会場の温度が、二度ばかり下がった。前列にいた令嬢が小さく悲鳴を上げて後ずさる。ユリウス様の頬が引きつり、その背後の護衛騎士が反射的に剣の柄へ手をかけた。……なぜ。私はただ、悲しげな顔をしようとしただけなのに。十七年生きてきて、いまだにこの体の使い方が分からない。前世で必要だったのは威圧と沈黙だけだった。笑うことも、泣くことも、誰かに甘えることも、私の人生には一度も出てこなかった。だから今世こそはと思ったのに。可憐に微笑む練習は毎朝欠かさずしているのに。鏡の前ではそれなりに様になっていたはずなのに。「……見ろ、あの目を」「やはり噂は本当だったのだな」ざわめきが広がっていく。違うんです。今のは悲しみの表情です。*私、ヴィオレット・ノクスハイムには前世の記憶がある。剣と魔法の世界で、焔獄の魔王ヴェルギアと呼ばれていた。大陸の三分の一を焼いて手に入れ、押し寄せる軍勢を単騎で退け、勇者と名乗る者たちをことごとく灰に変えた。そういう生き方しか、知らなかった。だから死んだあと、公爵家の赤子として目を覚ましたとき、私は本気で喜んだのだ。人間の女の子。戦のない国。柔らかい寝台と、母の腕。今度こそ、普通の女の子として生きられる。恋がしたかった。誰かに名前を呼ばれて、胸が高鳴るというのを一度でいいから味わってみたかった。屋敷の書庫に恋愛小説を見つけてからは、それはもう夢中で読んだ。舞踏会。淡い視線。手袋越しに触れる指先。そういうものになりたかった。なれなかった。理由は、たぶん
last updateآخر تحديث : 2026-08-29
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第2話 聖女候補の告発
ミナ・レンフィールドが、一歩前に出た。小柄な少女だ。私より頭ひとつ分は低い。手袋をした両手を胸の前で握りしめ、その指先が震えているのが遠目にも分かった。ユリウス様が慌てて彼女に駆け寄る。「無理をするな、ミナ。君が話す必要はない」「いいえ」彼女は首を横に振った。「わたくしの口から、申し上げます」会場がざわめいた。健気だ、と誰かが囁いた。あんなに震えているのに。可哀想に。私は立ち尽くしたまま、その光景を眺めていた。こういうときの正しい振る舞いを、私は知らない。反論すべきなのだろうか。それとも黙って聞くべきなのだろうか。恋愛小説には、身に覚えのない罪で糾弾された令嬢がどう振る舞うべきかまでは書いていなかった。とりあえず、私は背筋を伸ばして立っていることにした。後で知ることになるのだが、この判断は最悪だった。「……三月の、初めのことでした」ミナ・レンフィールドの声は、澄んでいた。「西棟の階段で、ノクスハイム様とお会いしました。わたくしは編入したばかりで、まだ校舎の造りも分からなくて。階段の上で、道に迷っていたのです」覚えている。覚えていた。編入生の男爵令嬢が、階段の上で立ち尽くしていた。困っているように見えたので、私は声をかけようとした。「ノクスハイム様が、わたくしのほうへ近づいてこられました」彼女は私を見て、飛び上がった。「わたくし、驚いてしまって。後ろに下がろうとしたのです。そこが階段の縁だとは、思わずに」――そう。彼女は下がった。踵が段を踏み外した。私の体は考えるより先に動いた。四段分の距離を一息で詰めて、落ちかけた彼女の腕を掴んだ。引き上げた。無事だった。「ノクスハイム様に、腕を掴まれました」会場がどよめいた。「三日間、痣が残りました」……あ。私は自分の右手を見下ろした。加減。そうだ。加減だ。とっさのことだったから、私はまるで考えていなかった。落ちる人間を掴み止めるのに必要な力を、体が勝手に計算して出した。前世の基準で。「なんということだ」ユリウス様が呻いた。「階段から突き落とそうとしたのだな」違う。逆だ。掴まなければ彼女は落ちていた。言おうとして、私は口を開いた。そして、気づいてしまった。――あの場に、他に誰がいた?いなかっ
last updateآخر تحديث : 2026-08-29
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第3話 この女は、魔王です
会場は静まり返っていた。聖女候補の少女が夢の話を始めたのだ。誰もが戸惑い、けれど誰も止められなかった。彼女の声には、そういう種類の力があった。「わたくしは、その夢を十五年見続けました」ミナ・レンフィールドは、まっすぐに私を見ていた。もう震えていなかった。俯いてもいなかった。あの、廊下ですれ違うたびに壁際へ飛びのいていた少女はどこにもいなかった。「毎晩です。目を閉じれば、必ず」私の指先から、感覚が抜けていく。「炎の色まで覚えています。あれは赤ではありません。赤の、もっと奥にある色です。見た者にしか分からない色です」やめて。「わたくしは、その色を知っています」やめてください。「そして――」彼女は、右手を上げた。小さな、手袋に包まれた手だった。その指先が、迷いなく私を指した。「この女は」ああ。「数万を焼き殺した、魔王です」一拍の空白があった。それから、会場がどよめいた。けれどそれは、私が身構えていた種類のどよめきではなかった。「……なんですって?」「まあ」「魔王って、あの、子どもの寝物語の」扇が揺れ、囁きが波紋のように広がっていく。困惑。それから、かすかな失笑。前列にいた老貴族が、堪えきれずに眉を上げて隣の者と目配せをした。そうだ。この世界に、魔王はいない。聖教会の説く教義にも、王立学園の歴史書にも、魔王という言葉は出てこない。あるのは、乳母が幼子に聞かせる御伽噺だけだ。悪い子のところには魔王が来る。夜更かしをすると魔王に食べられる。そういう、輪郭のない怪物。だから彼らにとって、今の言葉は――「聖女候補ともあろう方が、ずいぶんな仰りようですこと」「よほど恐ろしい思いをなさったのでしょう」――ただの、激しすぎる罵倒だった。人でなし。血も涙もない女。悪魔のような。魔王のような。そういう連なりの、いちばん端にある言葉。詩的に過ぎるが、あれだけの目に遭わされた娘の口から出たのなら無理もない、と。同情の視線が、ミナへ集まっていく。ユリウス様が咳払いをした。「……ミナ。気持ちは分かるが、少し言葉が過ぎる」「わたくしは、そのままを申し上げました」「うむ。しかしだな」彼は困り顔で額を押さえた。せっかく整えた断罪の場が、聖女候補の情緒的な失言で締まらなくなった。彼の
last updateآخر تحديث : 2026-08-29
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第4話 反論できない
「ヴィオレット」ユリウス様の声が、私を呼んだ。「弁明を許す。何か、言うことはあるか」会場が、また静まった。数百の視線が戻ってくる。今度は先ほどまでとは違う色をしていた。憐れみに似た何かが混ざっている。無理もない。婚約者に婚約を破棄され、聖女候補に告発され、そして何ひとつ言い返さない女。言えばいいのだ。三月の階段は、突き落としたのではなく助けたのだと。四月の髪飾りは、悪意ではなく不器用さのせいだと。五月の渡り廊下では、私はただ微笑もうとしただけなのだと。証人はいない。信じてもらえる見込みもない。それでも、言うだけなら言える。言える、はずだった。けれど。私の喉は、まだ塞がったままだった。言葉というのは不思議なもので、嘘をつく余地があるうちは、いくらでも滑らかに出てくる。たとえば「わたくしは何もしておりません」と言うとする。階段のことも、髪飾りのことも、そう言い切ってしまえば済む。誤解の話だ。私の言い分の方が正しい。けれど、その言葉は今、あの一言の後に続くことになる。――この女は、数万を焼き殺した魔王です。その直後に「わたくしは何もしておりません」と口にする。……できるだろうか。私は。まぶたの裏に、色が滲んだ。赤の、もっと奥にある色。見た者にしか分からない色だと、あの娘は言った。その通りだと思う。私はあの色を、自分の手から出したことがある。そして、あの色の後に何が来るかも知っている。音がなくなるのだ。燃えている間はうるさい。木が爆ぜ、石が割れ、いろいろな音がする。人の声もする。けれどそれらは全部、そう長くは続かない。やがて風の音だけになる。その静けさを、私は何度もくぐった。くぐって、次の街へ行った。――やめて。自分の記憶に向かって、私は言った。今ここで見るものではない。今は、この場を切り抜けなければ。けれど手遅れだった。ひとたび思い出してしまえば、口は動かない。嘘を、つけない。「……答えぬか」ユリウス様の声が、硬くなった。「答えられぬ、ということだな」ざわめきが変わった。憐れみの色が引いて、代わりに冷たいものが混じり始める。沈黙は雄弁だ。とりわけ、何を言われても言い返さない女の沈黙は。「やはり」「あの方は、認めておいでなのだわ」「恐ろしい」そうか、と私
last updateآخر تحديث : 2026-08-29
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第5話 その令嬢は、私が貰い受ける
轟音がした。大広間の両開きの扉が、蝶番ごと内側へ弾け飛んだ。厚さ三寸はある樫の扉だ。それが紙のようにひしゃげて床を滑り、シャンデリアの光を跳ね返しながら、貴族たちの足元で止まった。悲鳴が上がった。司祭が飛び退き、令嬢たちが将棋倒しのように後ずさる。護衛騎士たちが一斉に剣を抜いた。私は、動かなかった。動けなかったのではない。今度は違う。――今のは、蹴り破ったのではない。そんな粗雑な壊れ方をしていない。あれは扉の蝶番と閂だけを的確に断って、あとは風で押し出したのだ。人を傷つけないように、けれど誰の目にも派手に映るように。そういう真似ができる人間を、私は前世で数えるほどしか知らない。砂埃の向こうから、足音がした。一人ぶんだった。現れたのは、若い男だった。年の頃は二十歳前後。長身で、肩幅が広い。白と紺を基調にした礼服に金の飾緒。肩から流れるマントの裏地は深紅で、動くたびに炎のように翻った。髪は白金だった。淡く光を弾いて、後ろへ流している。そして、瞳。蒼氷、としか言いようのない色だった。冷たく澄んで、底が見えない。「――帝国の紋章だ」誰かが呻いた。「レーヴェンハルト……あれは、レーヴェンハルト帝国の」ざわめきが、恐慌に変わった。大陸最強の軍事国家。我がアーデルハイド王国など、その気になれば三日で盤上から消せる相手。その紋章を身に帯びた男が、たった一人で、卒業パーティの会場に立っている。護衛騎士が震える声を絞り出した。「な、何者だ! 名を――」「アルヴィス・レーヴェンハルト」男は、歩みを止めずに答えた。「レーヴェンハルト帝国、皇太子」騎士の剣先が下がった。誰も、彼を止めなかった。止められる者が、この会場に一人もいなかった。彼は、まっすぐ歩いてきた。不思議な歩き方だった。私はそれを見ていて、少し遅れて理由に気づいた。――誰も見ていない。会場には数百人がいる。貴族が、令嬢が、騎士が、聖女候補が、そして王太子がいる。普通、こういう場に踏み込んだ人間は、まず全体を見る。誰が敵で誰が味方か、どこに何があるか。この男は、それをしなかった。一度も、目を動かさなかった。最初から、行き先が決まっていた。「――帝国の皇太子殿下」ユリウス様が、かろうじて声を作った。「これは、
last updateآخر تحديث : 2026-08-29
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第6話 一晩で決まった婚約
その夜のうちに、話は決まった。私は自分の部屋に戻されることもなく、王宮の一室に移された。天井の高い、暖炉のある応接の間だ。壁際に護衛が二人立っていたが、彼らは私を見ないようにしていた。長椅子に腰かけて、私は膝の上で手を組んでいた。右手の甲に、まだ感触が残っている気がした。――やっと、見つけた。あの言葉が、頭の中で何度も再生される。誰が。誰を。私を?「わたくしを、見つけた……?」声に出してみたが、意味は増えなかった。隣の広間から、声が漏れてきていた。分厚い扉越しなので、単語は拾えない。それでも、声の高さと間の取り方だけで、どちらが押していてどちらが引いているかは分かる。低く、短く、間を置いて話す声がひとつ。その合間に、早口で長く続く声が二つか三つ。――勝負になっていない。前世で、私は何度も交渉の席に着いた。魔王は戦うだけの生き物ではない。降伏の条件を詰め、貢納の額を決め、人質の数を値切る。そういう仕事の方が、むしろ多かった。だから分かる。長く喋る側は、すでに負けている。一刻ほどして、扉が開いた。出てきたのはユリウス様だった。顔色が悪い。パーティのときに整えていた髪が乱れて、額に張りついていた。彼は私を見つけると、そこで足を止めた。しばらく、何も言わなかった。「……決まった」やがて、彼は言った。「おまえは、レーヴェンハルト帝国に嫁ぐ」「は」「皇太子妃候補として迎えたいと。今夜のうちに婚約を結び、明朝には出立すると」私は瞬きをした。「明朝、ですか」「あの男は、そういう男だ」ユリウス様は疲れた声で言った。「こちらが何を持ち出しても、答えはひとつだった。彼女を渡せ。代わりに、何でも払う、と」「……何でも」「文字通りだ」彼は乾いた笑い方をした。「東の関税を三年撤廃する。国境の駐屯を二個師団引く。今年の凶作分の穀物を無償で回す。父上が言い値を吊り上げるたび、あの男は顔色ひとつ変えずに頷いた。最後には父上のほうが黙った」私は言葉を失った。小国が大国から引き出せる譲歩ではない。国が傾くほどの額だ。それを、たった一人の令嬢と引き換えに。しかも、断罪されている最中の。「ヴィオレット」ユリウス様が、初めて私の名を呼んだ気がした。三年の婚約期間で、彼は私を「おまえ」としか呼ばなかった。
last updateآخر تحديث : 2026-08-29
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第7話 侍女シェラ
娘は、私の三歩手前で止まった。息を切らせていたが、乱れていたのは呼吸だけだった。走ってきたはずなのに、髪も、襟元も、エプロンの結び目すら崩れていない。「お待ちください」もう一度、彼女は言った。年の頃は二十歳前後だろうか。灰がかった栗色の髪をきっちりと結い上げ、公爵家の侍女服を着ている。目鼻立ちは整っているが、表情がほとんど動かない。そういう顔立ちの人間を、私はもう一人だけ知っている。鏡の中に。「……あなたは」「ノクスハイム家に仕えております、シェラと申します」彼女は膝を折って礼をした。教本の挿絵のような、寸分の狂いもない礼だった。「お嬢様の御身の回りのお世話を、わたくしが仰せつかりました」「聞いていませんが」「先ほど決まりましたので」シェラと名乗った侍女は、平然と言った。「旦那様と奥様より、書状を預かっております。お嬢様おひとりで異国へ発たせるわけにはまいらぬ、と」私は、鞄の紐を握りしめた。昨夜、父と母には会えなかった。会わせてもらえなかったのではない。私が、会わないことを選んだ。顔を見たら、何か言ってしまいそうだったからだ。言ってはいけないことを。「……父上と、母上が」「はい」「お二人は、どのような様子でしたか」シェラは少しの間、黙っていた。「奥様は、ずっと泣いておいででした」胸の奥が、鈍く軋んだ。「旦那様は、泣いておられませんでした」「そうですか」「ただ、書状を三度、書き直しておられました」私は、下を向いた。「同行を許すかどうかは、私が決めることではない」隣で、アルヴィス様が言った。彼はいつの間にか一歩下がって、私とシェラのやりとりを眺めていた。会場に踏み込んできたときと同じで、余計な口を挟まない人だ。「ヴィオレット嬢。あなたが決めるといい」「わたくしが、ですか」「これから先、あなたの傍に誰を置くかは、あなたの権利だ」私は、シェラを見た。正直に言えば、迷った。見覚えのない顔だった。公爵家に長く仕えている者なら、私は全員の顔を覚えている。屋敷の使用人は四十人ほど。それぞれの名前と、得意なことと、苦手なものまで頭に入っている。この人はいない。「シェラ。あなたは、いつから公爵家に」「一昨日からでございます」「一昨日」「はい」即答だった。隠す気がまるでない。「
last updateآخر تحديث : 2026-08-29
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第8話 馬車の中の距離
翌朝、馬車に乗り込んだ私は、座席の向かいに積み上げられたものを見て固まった。箱だった。淡い色の紙で包まれ、細い金糸のリボンで結ばれた、上品な箱。それが十五、いや、二十はある。座席の半分を占領して、天井近くまで積み上がっている。「……アルヴィス様」「おはよう。よく眠れたか」「これは」「焼き菓子だ」彼はごく当たり前の顔で言った。「昨夜のうちに手配させた。この街道沿いで評判の店を六つほど当たらせて、それぞれの看板の品を揃えてある。詰め合わせにすると当たり外れが出るので、単品で買わせた」「……六つ」「足りなかったか」「多いのです」「そうか」彼は少し考えて、頷いた。「では、次の宿場でもう少し買わせよう」「そうではなくて!」結局、箱は三つに減らしてもらった。残りは後続の荷馬車に移された。私は膝の上に小さな包みをひとつ載せて、途方に暮れていた。「食べないのか」「……いただきます」蓋を開けると、蜂蜜色の焼き菓子が並んでいた。表面に粗い砂糖が散らしてあって、甘い香りが立ちのぼる。ひとつ摘まんで、口に入れた。――おいしい。軽くて、さくりと崩れて、後から蜂蜜の香りが来る。屋敷で出るものより素朴だが、そのぶん素直な甘さだった。思わず、二つ目に手が伸びた。そこで我に返った。人前だ。令嬢は人前で三つ以上食べない。母から教わったわけではないが、社交界を観察してそう結論づけた。皆、優雅に一つか二つしか食べていない。私はそっと手を引っ込めた。「なぜやめる」「……はしたないので」「誰が決めた」「え」「誰かに、そう言われたことが」私は言葉に詰まった。「……ございません」「では、食べればいい」彼は身を乗り出して、箱を私の方へ押した。「あなたが甘いものを食べているところを見るのが、私は好きだ」「――っ」手が滑った。正確には、滑ってはいない。私はそのとき、座席の縁を掴んでいた。めきり、と音がした。馬車が止まった。外から御者の慌てた声がして、扉が開き、騎士が飛び込んできて、私は震える手で座席の縁を指した。そこには、指の形にへこんだ木枠があった。樫の一枚板だ。「……申し訳、ございません」「怪我は」「ございません」「そうか。よかった」アルヴィス様は、心底ほっとした顔をした。私は消えてしまいたかっ
last updateآخر تحديث : 2026-08-29
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第9話 信じた上で
「ええ。一言残らず」即答だった。考える間も、ためらう気配もなかった。私が問い終えるより早く答えが返ってきたような気さえした。馬車の車輪が石を踏んで、小さく跳ねた。「……あの」「うん」「信じた、というのは」「言葉のとおりだ」彼は書類を膝に置いて、こちらを見た。「あの聖女候補は、あなたが数万を焼き殺した魔王だと言った。私はそれを信じている」心臓が、遅れて動いた。とん、と一度大きく打って、それから速くなった。「……本気で、おっしゃっていますか」「本気でないことは、言わない」「あの、アルヴィス様。あれは、その」言葉が空回りした。否定しようとしたのだ。ただの罵倒です、と。誰もが受け取ったとおりに、詩的に過ぎる悪口です、と。そう言えば、この会話は終わる。「――事実か」彼が、静かに問うた。私の口が、止まった。嘘を、と思った。ここで否定すれば済む。けれど。蒼氷の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。あの目に嘘を置くことを、私の身体が拒んだ。長い沈黙のあと、私は言った。「……はい」「そうか」彼は頷いた。それだけだった。*馬車は進み続けた。窓の外を、麦の畑が流れていく。刈り入れ前の穂が風に揺れて、金色の波を作っている。彼は、何も言わなかった。書類に戻ることもなく、私を見つめることもなく、ただ静かに座っていた。――なぜ。十を数えるあいだ待った。二十を数えた。それでも何も起こらなかった。私の指先が震え始めた。「……何か、おっしゃってください」「何を」「何でも」私は膝の上で拳を握った。「怖い、でも、恐ろしい、でも構いません。おぞましいと、そう言ってくださって構いません。むしろ――」そう言ってくれた方が、ずっと楽だった。十七年、私はそれに慣れている。人が私を見て身を引く顔なら、飽きるほど見てきた。あれは私が受け取るべきものだ。慣れた重さだ。「――むしろ、そう言ってください」「なぜ」「なぜ、って」「なぜ、私にあなたを責めさせようとする」私は言葉を失った。彼は続けた。「あなたは今、私に罰を求めている。違うか」「……それは」「あなたは自分を赦していない。だから、誰かに責めてもらわないと座りが悪い。私が何も言わないと、あなたは宙に浮いてしまう」図星だった。あまりにも正確に言い当
last updateآخر تحديث : 2026-08-29
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