LOGIN「この女は――数万を焼き殺した、魔王です」 聖女候補の告発は、一言残らず事実だった。 前世、わたくしは大陸の三分の一を焼いた魔王。今世では普通の恋に憧れる公爵令嬢として生きていたのに、卒業パーティーで正体を暴かれ、婚約破棄と処刑を言い渡される。 そこへ現れた隣国の皇太子は、すべてを知った上でわたくしを求めた。 「ええ。あなたが魔王だったことも、すべて信じております」 濡れ衣ではない。罪も過去も、すべて本物。 罪を抱えた元魔王の令嬢と、彼女のすべてを知って愛する皇太子。 二度目の生で結ばれる、宿敵たちの溺愛ラブファンタジー。
View More崩れ落ちる音は、思ったより静かだった。
城壁が割れ、火の粉が舞い、悲鳴と剣戟がまだ遠くで続いているというのに、私の腕の中にいる彼女の周りだけ、世界から音が抜け落ちているようだった。
焔獄の魔王ヴェルギア。
大陸の三分の一を灰に変え、勇者一行を退け、そして今、私と刺し違えて倒れている女。
その胸に、私の剣が深く沈んでいる。
彼女の剣も、同じだけ深く、私の身体を貫いていた。
相打ちだった。
最初から、そのつもりだった。
彼女を殺すつもりで剣を抜いたのではない。
彼女が生きて、私が生きて、この先も魔王同士として殺し合い続けることに、意味を見出せなかっただけだ。だから、最後の一撃を、互いに躱さなかった。
彼女もまた、同じことを望んでいたのだと思う。
傷だらけの身体で、それでも一歩も引かなかった彼女の目に、迷いはなかった。私と同じ目を、していた。
だが。
崩れ落ちる彼女を抱き止めた瞬間、私は初めて、自分の見誤りに気づいた。
殺し合ってなお、私は彼女から目を離せずにいた。
血にまみれ、傷だらけで、それでも凛と剣を振るい続けたその姿に、私は――
心を、奪われていた。
いつからかは、分からない。
最初の激突のときか。
三度目の膠着のときか。 あるいは、もっと前、彼女の名だけを噂に聞いていた頃からか。気づいたときには、もう遅かった。
私たちは、殺し合わなければならない立場にいた。
彼女の瞼が、閉じかけていた。
魔力の残滓が、赤い瞳の奥でまだ揺れていた。
私は、彼女の頬に触れた。
血で汚れた頬だった。
それでも、これほど美しいものを、私は他に知らなかった。「――お前を」
声が、掠れた。
彼女には、もう聞こえていないかもしれない。
それでも、言わずにはいられなかった。
このまま彼女を死なせて、終わりにすることもできた。
魔王同士の宿命として、それが正しい終わり方だったのかもしれない。
けれど、私は。
諦めたくなかった。
腕の中で、私は術式を組み始めた。
禁術と呼ばれる、不完全な転生の術。
範囲も、行き先も、時代さえ制御できない。
同じ世界に生まれる保証すら、ない。それでも。
「――次は」
崩れ落ちてゆく彼女を見つめながら、私は術を発動させた。
光が、二人を包んでいく。
「必ず」
彼女の意識は、もうほとんど残っていないだろう。
この言葉が届くことは、ないかもしれない。それでも、私は言った。
誓いのように。
祈りのように。
「――お前を泣かせるほど、幸せにしてやる」
光が弾け、世界が白く塗り潰されていく。
最後に見えたのは、彼女の唇が、微かに動いた――ような、気がしたことだった。
何を言おうとしたのかは、分からなかった。
分からないまま、私の意識も、そこで途切れた。
*
次に目を覚ましたとき、私は赤子として、この世に生まれ直していた。
木立の影が、動いた。一つではなかった。私は窓から離れなかった。離れれば、こちらが気づいたと悟られる。――数を、数える。木立に三。噴水の裏に二。東の回廊の柱の陰に、たぶん一。六。いや。屋根に、二。八だ。私は、ゆっくりと窓辺を離れた。灯りを消さなかった。消せば合図になる。寝間着のまま、壁伝いに扉へ向かった。――シェラを起こす。そう思ったところで、扉が音もなく開いた。シェラが、すでにそこにいた。「お嬢様」囁き声だった。侍女服ではなく、動きやすい黒の上下に着替えている。いつ着替えたのか。「八人」私が言うと、彼女は首を振った。「十一でございます」「……十一?」「厨房の裏に三。あれは先ほど壁を越えました」彼女は淡々と言った。「屋根の二名は弓。回廊の一名が指揮。残る八名が突入班かと」「シェラ、あなた」「四天王が一、灰塵のシェラハドでございます」彼女は初めて、少しだけ笑った。「斥候と暗殺を束ねておりました。同業の手癖は、見れば分かります」「アルヴィス様は」「あちらはご心配なく」「なぜ」「宮の警備が動いておりません」シェラは言った。「これだけの人数が壁を越えて、見張りの一人も騒がぬはずがない。にもかかわらず静かだということは」「……内応者がいる」「あるいは」彼女は目を細めた。「――すでに、あちらが把握して泳がせている」*廊下へ出た。灯りが半分落とされている。夜半以降はいつもそうだ。角を曲がったところで、正面から人影が来た。私は反射的に構えを取り、そして止めた。「ヴィオレット」アルヴィス様だった。夜着ではなかった。黒の軍装だ。剣を佩いている。「起きていたか」「……はい」「窓から見たな」「はい」「そうだと思った」彼は微かに笑った。「あなたの部屋の灯りが、見張りより先に消えなかった。よく気づいてくれた」「泳がせておられたのですか」「三日前から」彼は言った。「グレンツ侯の家令の一人が、先週アーデルハイドの商人と会っている。金の出所は聖教会だ」私の指先が冷えた。「侯爵閣下が――」「侯は関係ない」彼は即答した。「家令が個人的に買われた。侯自身は今夜、東棟で私の兵と一緒にいる。自ら申し出た」「ヴィオレット。頼みがある」「はい」「後ろにいてくれ」私は、
その夜、私は数えようとした。寝台に横たわって、天井を見上げて、数えようとした。――何人だったろう。数万、とミナさんは言った。正確な数字を、私は知らない。前世で、そんなものを勘定した覚えがない。落とした街の名前は覚えている。焼いた城の位置も、季節も、天気さえ覚えている。けれど、人の数は。一度も、数えなかった。数えられないなら、顔を思い出そうとした。ひとつでいい。誰か一人の顔を。目を閉じた。炎が見えた。それはすぐに出てくる。赤の、もっと奥にある色。あの色は忘れようがない。その中に、人がいたはずだ。――誰か。輪郭が浮かびかけて、すぐ崩れた。もう一度、試した。崩れた。私は寝台の上で身体を起こした。思い出せなかった。一人も。前世で、私が終わらせた人間の顔を、私は一つも覚えていない。背中は覚えている。逃げていく背中。あれは風景として覚えている。けれど顔は、ない。――見ていなかったからだ。私は、見ていなかった。戦の前に敵の総数を数え、地形を測り、退路を塞ぎ、そして片づけた。片づけるものを、一つずつ見る必要がなかった。見ていたら仕事にならなかった。だから見なかった。そうやって十九年生きて、二十三で死んだ。私は寝台から降りて、窓辺の椅子に座った。膝を抱えた。――ならば、私が背負っているものは、何なのだろう。数も知らない。顔も知らない。名前など、一つも。私が知っているのは「数万を焼いた」という言葉だけだ。言葉だけを抱えて、私は罪だ罪だと言っている。それは、償っていることになるのだろうか。――なっていない。はっきりと、そう思った。罪の重さを感じている自分に、少し酔っていたのではないか。赦されてはいけないと繰り返すことで、何かをした気になっていたのではないか。本当に背負うというのは、たぶん、そういうことではない。けれど、では、どうすればいいのか。分からなかった。窓の外は、深い夜だった。庭の輪郭がぼんやりと見える。タリアの木立。石畳。噴水。――この国は、大陸に敵と呼ばれる。昼間の書簡が、頭の中で繰り返される。教会は大陸中の信徒に告知する。レーヴェンハルト帝国は災厄を庇護している、と。港が締まる。交易が滞る。そのぶん、誰かが困る。宿場の主人。息子が騎士団にいる
封を切ったのは、アルヴィス様だった。「私が読む。……構わないか」「はい」朝食の間に、四人がいた。私とアルヴィス様。壁際にガイル。扉の脇にシェラ。彼は書面を広げ、しばらく黙って目を走らせた。そして、言った。「――くだらん」初めて聞く声だった。「アルヴィス様?」「読み上げる。腹が立ったら止めてくれ」「『聖教会アーデルハイド管区、大司教バルドウィンより、レーヴェンハルト帝国皇太子アルヴィス殿下へ』」大司教。聞き覚えのない名だった。あの夜の司祭は、もっと下の位のはずだ。「『先般、貴国が我が国より連れ出されたヴィオレット・ノクスハイムなる女につき、看過し難き事実が判明いたしました』」「……はい」「『聖女候補ミナ・レンフィールドに、繰り返し託宣が下されております。曰く、かの女は人の身に非ず。曰く、かの女は大いなる災いを大陸にもたらす』」私は、フォークを置いた。「『我らは貴国の主権を尊重するものでありますが、事は一国の問題に留まりません。つきましては、かの女の身柄を聖教会に引き渡し、審問に付されたく』」ガイルが、低く唸った。「『応じられぬ場合、教会は大陸全土の信徒に向け、レーヴェンハルト帝国が災厄を庇護せる国であることを告知せざるを得ません』」アルヴィス様は、そこで書面を置いた。「――以上だ」「殿下」ガイルが一歩前に出た。「これは、脅しでございます」「そうだな」「教会が大陸中の信徒を煽れば、交易に響きます。北の三国は教会の影響が濃い。港が締まれば」「締まればいい」彼は即答した。「三年は持つ。その間に別の航路を開く。ガイル、東方の商会に人をやれ」「……はっ」「それと、この文面を写して各国の宮廷に回せ。原文のままでいい」「原文を、でありますか」「読んだ者は考える。『次は自分の国か』と」ガイルが、深く礼をして出ていった。私は、その背中を見送った。そして、口を開いた。「アルヴィス様」「うん」「わたくしが、行けば」「駄目だ」「ですが、これは帝国に何の利も――」「ヴィオレット」彼は書面を折りたたんだ。「この文書には、決定的な嘘がひとつある」「嘘」「『審問に付されたく』の部分だ」彼は言った。「教会に審問という手続きはない。あるのは糾問だけだ。あれは結論の決まった儀式で、二百年の記録で無罪が
決闘の翌日から、皇城が変わった。廊下ですれ違う侍女が、壁際に寄らなくなった。寄らないどころか、立ち止まって礼をする。そのあと、顔を上げて笑う者までいる。「おはようございます、ヴィオレット様」「……お、おはようございます」「昨日は、拝見しておりました。三階の窓から」「そう、ですか」「あの、その」若い侍女は頬を紅潮させて言った。「かっこよかったです!」そして脱兎のごとく走り去った。私は廊下に取り残された。*そういうことが、一日に十回ほど起きた。厨房の前を通れば料理人が出てきて「今朝の焼き菓子は特別に作りました」と言う。中庭を歩けば庭師が「あの砂は片づけましたのでご心配なく」と言う。練兵場の前を通ったら、修繕中の石工が槌を置いて頭を下げた。「あの、修繕費は、わたくしが」「とんでもない」石工頭は笑った。「あれは名誉の穴でさあ。うちの若いのが、削った石を欲しがって喧嘩しております」「……喧嘩」「お守りにするんだと」私は、返す言葉がなかった。*昼過ぎ、マルグリット夫人の教育があった。彼女は白磁の茶器を前に、片眼鏡を光らせた。「本日で、七日目でございます」「はい」「破損、ゼロ」「……はい」「歩容、良好。礼の形、完成。表情については――」夫人は言葉を切った。「本日の侍女の交代は、ございません」私は目を瞬いた。「あの、それは」「一人も、逃げませんでした」夫人は片眼鏡を外した。「ヴィオレット様。四十年やってまいりましたが、七日でここまで来た方は、記憶にございません」「……いえ、そんな」「ご謙遜は不要です」「本当に、たまたまで」「たまたま、五客割ってから七日で白磁を扱えるようにはなりません」「ですが、皆さんが手を貸してくださったので」「ヴィオレット様」夫人の声が、少しだけ硬くなった。「なぜ、受け取らないのです」*その夜、私はそのことを考えていた。窓辺の椅子に座って、暮れていく庭を見ていた。――受け取らない。そう言われて、初めて自覚した。今日一日、私は何十回か褒められた。そのすべてに、私は同じ返事をしていた。いえ、そんな。たまたまです。皆さんのおかげです。嘘ではない。本当にそう思っている。けれど。「入っても」扉の外から声がした。「……どうぞ」アルヴィ